マウントエベレスト氏との別れ

ウチの事務所は6階にあり、廊下から見えるのは向かいのマンションのベランダです。

そこに木の看板を掲げている家があり、その看板には“TOP OF EVEREST”と手書きの白い文字が書かれていたのでした。
ベランダは他の住民からは見えないので、向かいの、まさに私の歩く廊下からしか見えない看板でした。 

私はその住民のことを心の中でマウントエベレストと呼んでいました。
6階には私以外にあまり人の出入りがなく、向かいのマンションもマウントエベレスト氏以外の人影を見かけることはほとんどありません。 

朝、10時前後にたらたら廊下を歩く私と、同じ時刻にベランダでたばこをふかすマウントエベレスト氏。
昼、12時過ぎにたらたら廊下を歩く私と、同じ時刻にベランダでたばこをふかすマウントエベレスト氏。 

こちらの廊下の方が少し見上げる位置にあるので、マウントエベレスト氏の部屋の中が少しだけ見えます。CDが積まれた部屋の中は雑然とした印象で、マウントエベレスト氏の風貌もまたそんな雰囲気でした。

しかし、実際にエベレストに登っているのなら、毎日ベランダで来る日も来る日もたばこをふかしているはずもないので、私と同じようにフツウの勤め人ではない何かだったのでしょう。 

ところが、ある日突然 “TOP OF EVEREST” の看板が外されてしまい、気がつけば部屋は空っぽになっていたのでした。 

カーテンのない部屋からCD棚の跡がうっすら見え、焼けた壁紙が哀しい雰囲気を漂わせていたのですが、それも束の間。
気がつけばリフォーム業者が入り、日に日に元マウントエベレスト氏宅は美しく変身していきました。

最初は壁紙が剥がされ、柱がむき出しになり、そして洒落たブルーグレーの壁紙が貼られ、部屋は見違えるようになりました。
もう全く“TOP OF EVEREST”ではないのです。 

次の住民はまだ来ません。

私は毎日マウントエベレスト氏が恋しくてならないのです。